(かんぴ)
法家の代表的人物。『韓非子』の著者。出自は韓の公子であり、秦の宰相となる李斯をとともに荀子に学んだとされている。自らの著作である『韓非子』にも、『戦国策』にも生涯に関する記述がほとんどないので、詳しいことはわかっていない。
生まれつき重度の吃音(言葉が円滑に話せない)であり、幼少期は王安や横陽君成といった異母兄弟から「吃非」と呼ばれて見下されてきたが、文才に長け、書を認めることで自分の考えを説明するようになり、後の『韓非子』の作成に繋がったとされる。
韓非の思想:法律によって民衆を治める
「礼儀で人間の本性を矯正し、これによって平和を維持する」とした荀子の考え方に対して、法によって外部から民衆を矯正することによって君主の権威を保つべきと説いている。
この思想は現実的かつ合理的であり、儒家が説く温情的、道義的な考えを一切排除したものであった。
韓は戦国七雄の中で最弱であり、最強の国の秦に隣接していたので、併呑されそうな状況であったが、自分が用いられないことを嘆き、自らの思想を書き残したのが『韓非子』である。
属国でありながら面従腹背(表面的には従うふりをして、内心では従わないこと)の韓を郡県化する議論が李斯の上奏によって起こっていた秦に、弁明のために韓から派遣されたときに、以前から韓非の論文を愛読して敬服していた秦王・嬴政は登用しようとする。
秦王・嬴政に認められた思想家
韓非は「民衆は官吏(国家機関に勤務する者)を教師とし、法律の規定を学ぶべきである」と説いていたことから、専制君主であり法による統治を敷いた秦王・嬴政は韓非を評価していた。
ここで李斯は韓非の才能が自分の地位を脅かすことを恐れて、「韓非は韓王の密命を受けて、秦を弱体化させるために来た患者である」と讒言した。このことにより韓非は牢に繋がれ、獄中に李斯が届けた毒薬で自殺させられる。