(りんしょうじょ) 

生没年不詳。秦の武将。趙の恵文王の家臣。「完璧」や「刎頸の交わり」の故事で知られる。

完璧

秦が趙の宝物「和氏の璧」と自国の15城との交換を申し出てきた。15城は小国にも匹敵する程であり、条件としては良いが、相手は常に侵略の機を狙ている強国の秦であることからただの口約束で、宝物を要求しているだけであった。ここで、和氏の撃を渡せば属国として認めるようなものになり、侵攻の口実を与える状況であった。

対応に窮した趙の恵文王は、繆賢の推挙のあった藺相如を呼び、この国難にあたって如何にするべきかを問い、次のようなやりとりから交渉役に抜擢した。

藺相如

秦は強く趙は弱い、受けざるを得ないでしょう。話を受ける形にして、何かあった際の非は秦にあるようすべきです。

恵文王

だが璧を奪われ、城を渡されなかったらどうする。それに任せられる使者がいない。

藺相如

使者が居ないのなら私が秦に出向き、城を受け取れなければ『璧を完うして帰ります』。

(璧を全く損ねることなく帰る=必ず持ち帰るの意、「完璧」の語源)

藺相如は秦都・咸陽へ入り、秦の昭襄王と対面する。

そして、和氏の璧を渡すが、受け取ったとたん寵姫や群臣に見せびらかし続け、城の話をする気配が無い昭襄王の態度に、城を渡す気が全く無いと判断し、小さな傷があるので教えると偽りながら近寄り、壁を奪いとり、

藺相如

趙では疑う意見が多かったが、『庶民の間ですら欺くのを恥とするのに、ましてや大国が欺くなど』との私の言を取り入れられ、大国秦に敬意を払い5日間身を清め和氏の璧を渡された。この信義に対し、秦は余りにも非礼で粗雑な扱い。もはや璧も自分の頭もこの柱で叩き割ってくれる。

昭襄王はあわてて地図を持ってこさせ、15城の話をしたが、それは上辺だけで城を渡す気が無いと判断した藺相如は、昭襄王に宝物を受ける際の儀式として5日間、身を清めるよう要求する一方で、その間に、従者に和氏の璧を持たせ密かに趙へ帰らせた。

そして5日後、身を清め終えた昭襄王が和氏の璧はどうしたかと問うと、

藺相如

歴代の秦の王において、約束を固く守った王を聞きません。秦王に城を渡すつもりが無いように見えたので、既に趙へ持ち帰らせました。15城を先に渡せば、趙が璧を惜しむことなどありません。しかし、重ね重ねの無礼の償いとして、私には死罪を賜りたい。

秦の群臣はこの者を処刑すべしと思ったが、藺相如の剛胆さに感嘆した昭襄王はこれを許し、璧も城も渡さないということで収まり、藺相如も無事帰国した。

紀元前279
秦と趙の両国の友好を祝う会が秦領の黽池で開催されることになり(黽池の会)、趙王・恵文王に同行する。幾度か非礼な扱いを受けるものの、藺相如の機転で切り抜け、秦に外交の対等の礼儀を守らせ、趙王の身も守り、趙の面子も守る。
刎頸の交わり (ふんけいのまじわり)

藺相如は数々の功績により上卿に任命されたが、歴戦の勇将・廉頗は彼の異例の出世を妬み、「藺相如は、舌先だけで上と成った。元は卑しい身分だ。その下に居ることは我慢ならぬ。必ず辱めてやる」と不満を漏らしていた。

藺相如はこれを知って、廉頗と会わぬように病気と称して屋敷に篭り、宮中に参内するときも廉頗が居ない日を見計らうようにしていたが、ある日、車で外へ出た藺相如は道で廉頗と偶然会いそうになり、すかさず脇に隠れた。

その夜、従者一同から折り入って話があると申し入れられた。

従者

我々が親戚縁者の下を離れあなたに仕えるのは、あなたの高義を慕っているからである。しかし、今日の主人の行いは匹夫でさえも恥じ入るような行いであるのに、全く恥じるそぶりもない。最早仕えることは出来ない。

藺相如

私は廉頗将軍より恐ろしいとされる秦王を叱りつけ、居並ぶ秦の群臣たちを辱めたのだ。従って、将軍を恐れる訳があろうか。

思うにあの秦が趙を攻め切れていないのは、私と将軍が健在であるからこそだ。いま私と将軍が戦えば、両虎相討つようにどちらも生きるということはない。私がこのような行動をとるのは、国家の危急を何よりも優先するからだ。

従者達は、その深い思慮と器量に大いに感じ入り、頭を下げた。

この話は宮中でも噂となり、これを聞いた廉頗は心打たれ、自らを恥じて藺相如の屋敷を訪れ、贖罪を請う。一方で、藺相如は「将軍が居てこその趙国である」と快く許し、二人は互いのために頸(首)を刎ねられても悔いはないとする誓いを結んだ。これが「刎頸の交わり」の故事の由来である。

秦は藺相如廉頗が健在の間は趙を攻めなかった。両名は政治と軍事のまさしく国家という車の両輪であり、その才と絆の強固さに手出しが出来なかったのである。

紀元前260頃
長平の戦いで、趙括が総大将に任ぜられるようとしている話を聞くと、死期が迫った病身を押して参内し、孝成王趙括の実戦経験と応用力の無さを説き、廉頗の解任を止めるよう進言したが、聞き入られなかった。

その後、病死したとされている。