(ちょうしゃ) 

趙の政治家・将軍。恵文王に仕えて閼与の戦いで秦の軍勢を撃退し、馬服君に封ぜられた。趙括趙牧の父。

元は「田部の吏」と呼ばれる田地の徴税官であったが、税金を払わなかった平原君の家の者を厳しく咎め、訴訟を行って9人を死罪に処した時の平原君への対応で、法に則ったことであり、法の重要性を説き、王族であるなら模範となるべきであると理路整然と反論したことで、その勇気と見識を認められ、恵文王に推挙され国税の管理を任されるようになる。趙奢は公平に税を徴収したために国庫は充実し、国力が増強することにつながるのである。

紀元前280
将軍として斉の麦丘を攻め取る戦功を上げ、武人としても着目されるようになる。
紀元前226
閼与の戦いで秦軍を敗退に追い込む。

秦は将軍・公孫胡昜に命じて趙南部の閼与の地に侵攻する。

廉頗楽乗は救援は不可としたが、趙奢は「閼与への道は険しくて狭いので、丁度二匹のネズミが穴の中で1対1で戦うようなものである。将が勇敢な方が勝つ。」と説き、恵文王はその意見を取り入れて、将軍に任じ、閼与への救援に向かわせる。

趙奢は邯鄲から30里の地に塁壁を築いて一旦進軍を止め、閼与への救援を勧める者を斬る。さらに、秦軍の間諜をもてなして帰すなどして、秦軍の油断を誘うように謀る。そして、頃合いを見計らった所で閼与への救援へと向かい、軍士の許歴の進言に従い北山の地を先んじて占拠し、秦軍に対して一気に攻撃をかけて撃破する。

趙奢恵文王からこの戦功を大いに称えられ、廉頗藺相如と同じ地位に昇格し、馬服君に封じられる。秦はこの三人が健在の間は、趙に攻め込む事が出来なくなる。