(ごき) 

衛の出身の軍人、政治家、軍事思想家。孫武孫臏と並んで兵家の代表的人物とされ、兵法の事を別名「孫呉の術」とも呼ぶ。死後に兵法書『呉子』の作者に擬せられた。

紀元前440
衛で出生する。
紀元前
孔子の高弟の曾子に師事する。

母の葬儀に帰らなかったため不孝として破門される。

紀元前
魯の元公の嘉に仕えて、将軍となる。

斉人を妻にしていたために将軍に任用する事を危ぶまれたので、先んじて妻を殺すことでそれを晴らす。しかし、それが結局人格に対する不信感を産み、魯の大夫たちの讒言にあって、元公から懲戒免職される。

紀元前
身の危険を感じ、魏へ移り、文侯に任用される。

家臣の李克の「軍事にかけては名将・田穰苴も敵わない」という提言によって文侯は任用を決めた。

紀元前
兵士の心服を得て圧倒的な強さを見せる。秦を討ち、5城を得て、西河の郡守に任ぜられる。
吮疽之仁

(せんそのじん) 現在は「部下の苦労をねぎらって大切にすること。」の意味で使われる。

軍中にある時は兵士と同じ物を食べ、同じ所に寝て、兵士の中に傷が膿んだ者があると膿を自分の口で吸い出してやった。ある時に呉起が兵士の膿を吸い出してやると、その母が嘆き悲しんだ。

何故泣くのだと聞くと「あの子の父親は将軍に膿を吸っていただいたことに感激して命もいらずと敵に突撃して戦死した。だから、あの子もきっと同じように命を惜しまずに敵へ突撃するだろう」と答えたという。

紀元前
文侯の死後、子の武侯が即位すると、丞相の座を田文と争うも、敗れる。
紀元前
田文の死後、後任の公叔の換言により武侯から疎まれるようになり、危機感を感じて、楚に逃亡する。
紀元前
楚・悼王に重用され、令尹(宰相)に抜擢される。法家的な思想を元とした国政改革を行い、富国強兵・王権強化を成し遂げる。南は百越を平らげ、北は陳・蔡の二国を併合して三晋を撃破、西は秦を攻めるほどの大国に仕立てる。

法遵守の徹底・不要な官職の廃止などを行い、これにより浮いた国費で兵を養い、領主の権利を三代で王に返上する法を定め、民衆(特に農民層)を重視した政策を取る。

この事から呉起は法家の元祖と見なされる事もある。しかし、その裏では権限を削られた貴族たちの強い恨みが呉起に向けられ、それを察知していた。

紀元前381
楚・悼王が老齢で死去すると、反呉起派は呉起を殺害するために宮中に踏み込む。逃れられない事を悟ると呉起悼王の死体に覆いかぶさり、遺体もろとも射抜かれて絶命する。