(そんぶ) 

斉の出身の軍事思想家。兵法書『孫子』の作者とされており、兵家の代表的人物である。孫臏の先祖であるとも言われている。「戦わずして勝つ」という戦略思想、戦闘の防勢主義と短期決戦主義など戦いに勝利するための指針を理論化した。

紀元前535頃
斉の大夫で後に田斉の公族・田氏が出自とされる。

若年から兵書に親しみ、黄帝と四帝の戦いや古代の伊尹、姜尚、管仲らの用兵策略を研究したといわれている。

紀元前517
一族内で内紛があり、江南の呉国へと逃れ、呉の宰相・伍子胥の知遇を得る。
紀元前515
呉王に闔閭が即位すると、伍子胥闔閭に「孫子兵法」を献上し、七回にわたり登用を説いたため、闔閭に宮中に呼びだされ、兵法を問われ、その対応(孫子姫兵を勒す)により信任を得て将軍に任ぜられる。
孫子姫兵を勒す

呉王・闔閭は孫武に「先生の著作十三篇はすべて読んだが、宮中の婦人で、少し軍の指揮を見せてもらうことはできるか」と問う。

孫武はこれを了承し、180人の宮女の二つの部隊に分け、さらに闔閭の寵姫をそれぞれの部隊の隊長に任命する。そして、何度も命令するが宮女たちはその指揮に全く従わず、笑っているだけだったので、命令を聞かないのは隊長に罪があるとし、隊長役の寵姫二人を処刑を命ずる。

闔閭は処刑を止めようとするが「一たび将軍として任命を受けた以上、陣中にあっては君命でも従いかねる事がございます」と言い、寵姫の処刑を断行する。これで180人の宮女は孫武の命令に粛々と従うようになる。

紀元前512
将軍として楚の衛星国であった鍾吾と徐を攻略する。

闔閭は勝利に乗じて楚に進攻しようとしたが、楚は依然として強大であることと呉兵の疲労を理由に楚へのさらなる進軍が上策でないことを進言し、闔閭はこの意見に従う。

紀元前506
漢水の河畔・柏挙での楚と呉・唐・蔡の連合軍の戦い(柏挙の戦い)で活躍し、その名が中原にと轟く。

呉の保護下にあった地方領主である唐の成公と蔡の昭侯は楚に侵攻を受けたので、呉に救援を求める。これをきっかけに呉王・闔閭孫武伍子胥を左右の将として進軍し、呉と楚の両軍は漢水の河畔・柏挙で会戦する。

孫武の陽動作戦によって楚の主力軍(20万)がおびき出され、その隙をついて呉の本軍が楚の王都・郢城へ侵攻するという情報によって、楚軍は急遽転じ、強行軍で進軍し、疲弊しきっているところに呉軍(3万)との戦いとなり、大敗する。

呉軍はこのあと5戦5勝と連勝し、10日のうちに楚の王都・郢城を陥落させ、楚・昭王を逃亡させる。

紀元前496
闔閭孫武の意見を容れず越へ侵攻するが苦戦に陥り、敵の矢による負傷が悪化して死亡する。孫武は伍子胥とともに太子・夫差を補佐して国力を養い、のちに呉は夫椒で越を大敗させ雪辱を果たす。
紀元前
以降の記録は残っていないことから没年も不詳。