- 孔子が編纂した歴史書『春秋』の名に由来する。
- 周が東の洛邑(のちの洛陽)に都を遷した紀元前770年から韓、魏、趙の三晋が成立した紀元前403年までとされる。
- 周12代幽王が皇后の申后と太子・宣臼を廃し、寵愛した褒娰とその子の伯服を太子としたことで王朝が危機的状況に陥ることになったので遷都した。
- 申后の父である申侯は異民族の犬戎と組んで王都の鎬京に侵攻し、幽王を殺害、洛邑で宣臼を即位させて平王と擁立する。
- 一方で、別勢力が鎬京で携王を擁立したために王室は分裂状態になる。
- 携王派は平王陣営に滅ぼされるが、この一連の混乱により王室の権威は失墜することになり、諸侯たちを統率する力を失う。
勢力分布図
覇者と春秋五覇
周王室の権威失墜によって、有力諸侯が力を伸ばし天下に号令するものが出てくるようになる。これが「覇者」と呼ばれ、諸侯が集う会盟を主宰する者のことで、強大な武力を背景に諸侯同士の争いの仲裁や夷狄と呼ばれる異民族の討伐といった本来は周王室が負うべき役割を担うのである。
後世の文献ではこの時代の覇者となった者を5人として、これを春秋五覇と呼んでいる。それぞれの出典によってその5人は異なるが、一般的には、斉・桓公、晋・文公、秦・穆公、楚・荘王、越・勾践を五覇としている。
諸侯 | 史記 孟子 | 荀子 | 漢書 | 百虎通 | 四子講徳論 |
---|---|---|---|---|---|
斉・桓公 | ● | ● | ● | ● | ● |
秦・穆公 | ● | ● | ● | ● | |
宋・襄公 | ● | ● | |||
晋・文公 | ● | ● | ● | ● | ● |
楚・荘王 | ● | ● | ● | ● | |
呉・闔閭 | ● | ● | |||
呉・夫差 | ● | ||||
越・勾践 | ● | ● |
名宰相の管仲の補佐のもと富国強兵を推し進めて国力を増強し、紀元前679年に衛の垔にて会盟を行い覇者となった。次のような成果を挙げ、王の代行者として役割を果たし、中原での威信を不動のものとした。
- 燕を脅かした山戎を討ち
- 異民族の狄に滅ぼされた衛を再興
- 楚の北進を阻止
諸国を放浪した末に君主となり、苦労人として知られる。次のような実績を残し、覇者となる。
- 中原諸国の脅威となっていた楚・成王を城濮にて破り覇権を確立
- 周王室の内乱を平定し、周・襄王の復位を補助
- 襄王に楚の捕虜1000人と兵庫100乗を献上する尊王の姿勢も明確
紀元前597年、泌の戦いで晋を破り事実上の覇権を握るが、楚がもともと蛮夷とされていたこともあり、尊王の意識は希薄であった。
洛陽の近くで周への示威を目的とした軍事演習を行い、王室の使者に対して王権の象徴である鼎の軽重を問うなど「周、何するものぞ」という態度を見せる。
諸侯が名目だけでも周王室を奉じ、その威光を尊重していた時代が終焉に向かう。
魯の三桓の台頭
魯の15代・桓公の公子を祖とする孟孫氏、叔孫氏、季孫氏の3氏を「魯の三桓」という。卿の位にあって専横を欲しいままにした。
孔子は周王室を頂点とした伝統的な身分制度を理想としていたため、三桓の振る舞いに激しく憤る。
『論語』の中では、「君、君たり、臣、臣たり」と説く。
晋の六卿の台頭~三晋の成立
晋には文公の治世を支えた狐氏、先氏、欒氏など10数の卿が存在していたが、権力闘争を繰り返し、昭公の頃には范氏、智氏、中行氏、趙氏、韓氏、魏氏の6氏が実権を握っていた。