(ふんしょこうじゅ)

紀元前215年、始皇帝の命を受けた蒙恬が30万の軍勢を率いて匈奴が支配する河南に侵攻し、同時に南方の百越の征伐に乗り出すが、この軍事行動が政治批判へとつながる。

この政治批判を抑えるために、紀元前213年、丞相・李斯が次の理由から儒家などの書物を焼き払い、拒否する学者は死刑にすることを始皇帝に提案した。

  • 儒家は過去の時代を理想化し、現代を批判して人々を惑わしていること
  • 皇帝の出す法令に批判を加え、その権威をあやうくしていること

始皇帝はこの提案を受け入れ、焚書令を発し、秦国以外の史書や、詩経・尚書などの書物を提出させ、焼き払った(書物を焼いたことから焚書といわれる)。

翌年には、政治批判をして民衆を惑わしたという理由で、首都・咸陽にいた460余人の学者を捕らえて、生き埋めにした(この中には儒者もいたので、坑儒といわれる)。

これらの出来事は後年、始皇帝が暴君とされる一因となっている。